とき子のインナートリップ

 

 

 瑞兆  ・・・・  瞑想へ


 

 

 

 

 

瞑想へ ・・・・ 涌きいづる命の泉



 今まで幾度か瞑想という言葉を目にはしていたもののいつも通りすぎていたものにはじめて真正面から対峙した二〇代後半。私の目的は自分の心の中をきれいにする事、そしていつも感じてしまう「何かある」のあの「何か」の正体をつかむ事。私は未知の大陸へはじめて足を踏み入れた探検者と同じ、道しるべも何もない大地を慎重に用心深く1歩また1歩と足を踏み出す。

 一番初めにおこなったのは数息観と随息観であった。これはゆったりと座り息をゆっくり吸い込み息を吐き出しながら声に出してひとおつ、また吸い込んで吐く息でふたあつと声に出して数える。十までいったらまた一つからこれをゆっくりと三回繰り返す。終わったら続いて今度は声に出さずに同じく三回繰り返す。そしてあとはじっくりとただ座るというものだった。目を閉じたほうが気持ちが落ち着くような気がしたのでそのまま十五分ぐらい座った。何とも言えない気持ち良さだった。目を開けた時の視野が広がるような明るさとリフレッシュ感がたまらず生きかえるような心地よさに魅了されて来る日も来る日も瞑想を繰り返した。考えてみればたったこれだけのとてもシンプルな瞑想ではあったがなぜか私の感情と心の揺れは穏やかになり命の泉が涌き出でて私を潤した。満ち足りたその感覚は何者にも変えがたくあらゆるものの根源がここにあるように思えた。

 その頃、私のまわりでは小さな変化が起き始めていた。我が家には実生の梅の木が数本あったのだがその年初めて花を咲かせたのである。白と赤の紅白の対となって咲いたのだ。また、ニッカの空き瓶に作った帆船を二人の知人に頂いたのだが一つは白、一つは赤でこちらも紅白にそろったのだった。私は吉兆だと直感した。我が家には今、とても良いことが起きているか、起きつつあるのだ、そしてそれはおそらく瞑想のことだと。更に恵比寿大黒様がやって来たり布袋様がやって来たりした。最後は打ち出の小槌だった。

 こうした事柄は私を更に瞑想へ瞑想へと駆り立てた。何かがある、のあの「何か」がそこにある筈であった。その為に進む為に良いというものは何でもやろうと心に決めていた。菜食が良いとの情報に菜食を取り入れたりもした。確かに気持ちが澄むような感覚を持ったものである。

 

 


 

 

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